武士道と大和魂①【第31回】

武士道は日本の精神と呼ばれています。
正確に言いますと、
武士道というものを精神というよりも修行の方法と言ったほうが
よりふさわしいではないかと思います。

新渡戸稲造は1899年この本を英語で発表しましたが、
その後日本語訳が日本国内で発行されるようになりまして、
日本人は初めて日本の道徳教育は武士道教育であるということを
認識しまして、そこから武士道を日本精神と呼ぶようになったのです。
「武士道」この本は鎌倉幕府から明治維新までの
676年の武士社会で形成した道徳教育体系をうまくまとめました。
武士社会のまとまりといっても過言ではないです。
じゃ、なぜ私がここで武士道を一つの修行方法というかといいますと、
鎌倉幕府から明治維新まで数多くの立派な侍が輩出しました。
でもこれらの侍は皆生まれつきの素晴らしい武士であったというわけではなく、皆その後人生の中で、絶えず自分を磨いて、
体を磨くよりも自分の精神をもっと厳しく磨いたため、
立派な侍となったのです。戦国時代の各藩の大名の成長ぶりを
見ればわかると思います。
人間は生まれたときに自分先天的な性格や気質と特性を持っています。
もちろん、長所があれば、短所もあります。
ある人が生まれつきの大雑把な人間で、
ある人は生まれつきの几帳面な人で、
ある人は生まれつきの果敢さの持ち主、
ある人が生まれつきの臆病とか、
これらの素質は一人の人間の生まれつきのものなのです。
例えば、ある人が生まれつきの勇者で大胆な人、
でも弱みとして、優柔不断の短所を持っています。
後天で武士道の修行を経て勇者の素質が変わらぬ、
しかもより剛毅な人間になり、
また優柔不断の短所を改めることができて、
決断力の優れた人間になれます。
なんでほぼ完ぺきな人間となったのか?
武士道がこのような役割を果たしています。
つまり武士道が人間の意志、精神を改造することができたから、
人間がより完ぺきとなるわけです。
言い換えれば、例えば、一人一人の人間を一つ一つの玉とします。
つまり生まれつきの素質が非常によいもので、
武士道は彫刻の道具みたいなものです。
この玉は彫刻の道具に入念に彫刻されて最終的に器となる。
つまり、彫刻の道具がこのいらない部分を削って、
つまり欠点を削ったり、直したり、
よい部分を念入りに切磋琢磨して最終的に美しい芸術品まで仕上げる。
玉は彫刻の道具に磨かれて器になり、
人間なら、武士道という道具に磨かれて完璧な人間になれます。
さらに精神境地を高めていきますと、聖人になれます。
だから武士道を精神というよりも一つの修行といったほうが
よりふさわしいではないかと思います。

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