「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」病ー その治療のための処方箋シリーズ ー②安黒務著『福音主義イスラエル論Ⅰ』紹介 A. アブラハムに対する「祝福の約束」の解釈

「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」病ー その治療のための処方箋シリーズ ②安黒務著『福音主義イスラエル論Ⅰ』紹介 A. アブラハムに対する「祝福の約束」の解釈ー「イスラエルとパレスチナの人々を含む諸国民の癒しー神の計画は回復されたパラダイス以下のものではない」

 さて「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」病と申しますと、そのような働き、運動、教えに関わっておられる方々には、少し“ショッキング”な呼び方と受けとめられるかもしれません。
 今回、このような「シリーズ名」とさせていただきましたのは、この運動と教えが内包しているものは、一般に受けとめられているよりも、深刻な問題であると思うからです。
 一般的には、長年迫害され、アウシュヴィッツやアンネの日記等にもあるような経験、そして避難所としての「パレスチナでのイスラエル国家の建設、その繁栄と祝福」を祈り、支援していくことは、
私たちが「クリスチャンとして、この時代を神の御前に真実かつ誠実に生きていきたい」という願いに叶うものであると受けとめられています。確かに、そのような側面はあります。
 しかし、物事はそのように単純ではないのです。AD.70年のローマ帝国による「エルサレム崩壊とユダヤ人の離散」以来、パレスチナの地に移り住んできていた人々が「パレスチナの地」から追い出されはじめたのです。2000年間の離散と迫害の歴史を経て、世界各地から帰還してきた多数のユダヤ人たちとすでに住んでいたアラブ人たちの間で争いが頻発しました。
 その解決のために、国連は「パレスチナの地」を分割し、二つの国家を認めることにしました。しかし、それがユダヤ人側に有利な内容であったために、アラブ人側はそれを不服として数度の戦争を仕掛けることになりました。ただ、米国からの多大な軍事的・経済的支援を得ていたイスラエルは、大きな勝利をおさめ続け、「国連が、パレスチナ人の独立国家のために確保していた土地ーガザと西岸」までも収奪し、植民地として「入植活動」を続けています。
 元々、住んでいた土地を奪われた上、独立の可能性を有するわずかな土地さえも、浸食され続けているパレスチナの人々にとって、絶望的な情況が続いています。その絶望がさまざまな抗議活動を起こしているのです。このような違法な情況を放置している国際社会、そして大きな影響力のある米国政府と議会、その背後で“誤った”圧力団体となっているキリスト教会、特にその中に存在する「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の運動や教えの中には、新約のキリスト教の「使徒的な福音理解」また「使徒的な倫理的実践」からの大きな逸脱が見られます。わたしは、このことを拙著『福音主義イスラエル論』ⅠとⅡ(キンドル本)で詳述しています。
 そして、特にここ十年、米国のみならず、世界各地に「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」の運動や教えの輸出と既存のキリスト教会への普及・浸透が図られてきています。わたしは、このようなグローバルな動きに対する無知は、長い先に「キリスト教会における“福音理解の変質”」をもたらしかねない要素のひとつと認識しています。そして、この“病”の治療と処方箋の提示というかたちで、大変懸念をもって取り組んでいます。このような歴史的状況の中において、「新約の光の下に生きるクリスチャンはどうあるべきなのか」という課題が突きつけられているのです。
 過去の歴史的経緯から、「ユダヤ人にとって安全な国づくり」の確立ということは理解できますが、それとともに「国土を半分奪われ、あてがわれた残りの半分も、植民地状態に置かれているパレスチナ人の民族自決権」の尊重というものに、国際社会、また特に「新約の光の下に生かされているクリスチャン」は真剣かつ丁寧に取り組んでいくべきなのではないでしょうか。
(中略)
 わたしは、多くの素朴で、純粋な信仰を抱いている日本のクリスチャン、キリスト教会、諸団体、諸聖書学校等が、「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」が内包している問題点や課題について、
どんな情報をも知ることなく、迫害の歴史をもつユダヤ人たちに対する同情心から、「ディスペンセーション主義キリスト教シオニズム」が内包する誤った聖書解釈と誤った倫理的実践に染め上げられていくことに大きな懸念を抱いている一人です。
 迫害の歴史をもつユダヤ人が「安全な国づくりする権利」は尊重しなければなりません。しかし、同時に「イエス・キリストの人格とみわざ」を軸に、“新約の光の下に”旧約聖書を解釈し、倫理的実践に生きるように召された私たちは、アラブ人また、パレスチナ人の“民族自決権”をユダヤ人と同レベルで尊重しなければ、「片手落ち」の正義となってしまいます。
 新約の光に生きる「クリスチャンは、民族差別主義的でアパルトヘイト的な”キリスト教シオニズムの不適合な要素”を否認することによって、
ヤコブとエソウというイサクの子供たちのようなユダヤ人とアラブ人の生得権に対する戦いをやめさせ、その祝福の共有を開始するよう助ける」方向で祈り、ささげ、貢献すべきなのではないでしょうか。
 また、新約の光に生きるクリスチャンは、旧約の“誤った民族主義の影”の支配から脱し、新約の光が差し込んでいる“未来の普遍的な神の国”ー 黙示録22:2に示されているように、「イスラエルとパレスチナの人々を含む諸国民の癒し」ーこれが神の目的であり、私たちの使命であるのではないでしょうか。
 私たちは、誤った熱狂や盲信に翻弄されることなく、“福音理解の変質過程”に身を委ねることなく、新約のみことばの約束通りに「神の計画は回復されたパラダイス以下のものではない」という確信を胸に抱いて、未来から送られてくる“雲の柱、火の柱”に導かれて旅を続けましょう。祈りましょう。

応援感謝!!ポチッとね  

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 陰謀論へ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ メディア・ジャーナリズムへ
にほんブログ村