モーゼス・ヘス

モーゼス・ヘス, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=147137 / CC BY SA 3.0

#19世紀ドイツの哲学者
#スピノザ研究者
#スピノチスト哲学者
#汎神論者
#ドイツ社会主義の人物
#シオニズム
#ユダヤ系ドイツ人
#ボン出身の人物
#1812年生
#1875年没
モーゼス・ヘス(1846年に描かれた肖像画) モーゼス・ヘス(Moses Hess, 1812年6月21日 – 1875年4月6日)は、ドイツのユダヤ系社会主義者、哲学者。
「モーゼス」とヘブライ名で名乗るのは1862年からであり、それまでは「モーリッツ」というドイツ名だった。
カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス、フェルディナント・ラッサールとともに、ドイツにおける社会主義の祖とされている。
テオドール・ヘルツルに影響を与えた政治的シオニズムの創設者でもある。
ボンで、祖先がポーランド出であるユダヤ人家族の一員として生まれた。
1817年に父はケルンに砂糖の精製所を設立して成功したが、モーリッツはボンに残され母方の祖父からタナフ(ヘブライ聖書)・タルムードについての知識を与えられた。
18歳でボン大学に入学したが、結局卒業はせず、家業の手伝いを要求する父と争い家を出てイギリス・オランダ・フランスを放浪した。
一時は父と和解するがしばらくして最終的に家を捨て、1837年から4年間は著述と研究にふけった。
1841年頃にマルクス、エンゲルス、アルノルト・ルーゲと出会い、『ライン新聞』(Rheinische Zeitung) などの創刊にも加わった。
新聞の通信員としてパリに派遣され、ミハイル・バクーニンやピエール・ジョゼフ・プルードンと知り合った。
1843年にケルンに帰り、労働者の間で煽動したり左翼的な論文を発表している。
1845年にはブリュッセルに行き、ドイツ人亡命者のための雑誌に投稿しながら1848年まで滞在。
スイス・ベルギー・オランダを放浪し1854年からパリに定住し、1861年にケルンに戻った。
1863年にはラッサールの全ドイツ労働者協会 (Allgemeiner Deutscher Arbeiterverein) の創立に協力している。
1864年にはマルクスらとともに第一インターナショナルにも参加した。
パリで死去。
哲学的にはドイツで興隆しつつあった青年ヘーゲル派に所属していたヘスは、1832年からはアンリ・ド・サン=シモンやフランソワ・マリー・シャルル・フーリエの社会主義思想を吸収する。
この頃のヘスは、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテやフリードリヒ・シェリングの弟子たちによって説かれた直観主義への信仰にバールーフ・デ・スピノザやヘーゲルの体系を結合し、絶対精神が導く歴史に救済を求めた。
ヘスはドイツで最初の社会主義者だが、マルクスやエンゲルスのような「科学的社会主義者」とは異なり、社会的平等が「必然」であるがゆえに望ましい、とは考えなかった。
彼の社会主義は「道徳的」な前提に立てられたものであり続け、これがマルクスやマルクス主義者たちにより「抽象的」「モラリスト」と批判される根拠である。
ヘスは1860年代に「ユダヤ人問題」について、「ヨーロッパ社会でユダヤ人が同化できる可能性は全くなく、ユダヤ人は自分の民族性を否定することによって他の民族の軽蔑を招いている、ユダヤ人はパレスチナに自分たちの国家を持つべきである」と主張した。
ヘスは自分の名をヘブライ風に「モーゼス」と改め、さらにこの論理を進めて、モーゼス・メンデルスゾーンが鼓吹したユダヤ教の改革はヨーロッパ哲学への迎合であると非難し、逆にハシディズムを偉大な信仰再興運動であると評価した。

ナサニエル・ド・ロスチャイルド

ナサニエル・ド・ロスチャイルド, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2150499 / CC BY SA 3.0

#フランスの銀行家
#フランスの実業家
#ワインに関連する人物
#ロスチャイルド家
#ユダヤ系イギリス人
#ユダヤ系フランス人
#1812年生
#1870年没
1860年頃のナサニエル ナサニエル・ド・ロスチャイルド(Nathaniel de Rothschild、1812年7月2日ロンドン出生 – 1870年2月19日パリ没)は、「ナト」としても知られ、ロスチャイルド家が所有するフランスのワイン生産部門の創設者である。
独語のナタニエル・ド・ロートシルトの表記でも知られる。
仏語では、ナタニエル・ド・ロチルドとなる。
ロンドンで生まれたナサニエル・ロスチャイルドは、ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(1777年-1836年)とハンナー・コーエン(1783年-1850年)の4番目の子である。
彼は1850年に、彼のおじであるジェイムズ・ド・ロチルド(1792年-1868年)が所有する銀行の業務に就くためにフランスのパリへ移住した。
1842年に、ナサニエル・ド・ロスチャイルドはパリ・ロチルド家の祖、ジェイムズ・ド・ロチルドの娘シャーロット・ド・ロスチャイルド(1825年-1899年)と結婚し、以下の子供をもうけた。
ナト・ロスチャイルドは彼のおじジェイムズとともにパリのロチルド・フレール銀行(後にヨーロッパ銀行、現在はバークレイズ)で働いたが、1853年に彼は、ジロンド県ポーイヤックのブドウ園シャトー・ブラーヌ・ムートンをテュレという名のパリの銀行家から取得した。
その前はテュレが1830年にエクトール・ド・ブランヌ男爵からそのブドウ園を購入した。
ナト・ロスチャイルドはブラーヌ・ムートンのブドウ園の65エーカー(263,000 m²)のために1,175,000フランを支払い、その用地を、シャトー・ムートン・ロチルドと改名した。
それは世界で最もよく知られるワイン生産者になったと言うことが出来得る。
1868年に、ナトのおじジェイムズは隣接するシャトー・ラフィットブドウ園を取得した。
シャトー・ムートンの3倍以上広いある名門のプルミエ・クリュ(premier cru)の所有地、それは家族の競争を生んだ。
1855年のボルドーワインの格付けにてシャトー・ムートンは2級に格付けされ、その所有者を大いに懸念させるものであった。
それに対して、彼は標語を作成した。
Premier ne puis, second ne daigne, Mouton suis.(「1級ではなかった、2級はいやだった、ムートンだ。」) 1856年に、ナサニエルと彼の妻はパリのフォーブール=サントノレ通り33番街の所有地をドニ・デクレ公爵から購入した。
その時それはロシア大使館に貸し出されたが、賃貸が1864年に終了して、彼は建物を一新してそれを彼の都市住居にした。
息子のアーサー・ド・ロスチャイルド(仏:アルテュール・ド・ロチルド)に引き継がれ、ナサニエルの孫アンリ・ド・ロチルドによって、1918年に第一次世界大戦の連合国の社交クラブ「Cercle de l’Union interalliée (リュニオン・アンテラリエ会)」へ売却された。
1878年に、ナサニエルはシュヴルーズ渓谷のセルネイ=ラ=ヴィルにあるヴォー=ド=セルネイ修道院を購入し、その時は1118年に建設されたシトー会系修道院のただの廃墟であった。
彼と妻は、湖畔の所有地を贅沢な田舎の邸宅に変えるための大規模な復旧作業と新築工事を実施した。
ナト・ロスチャイルドは晩年期に失明した。
彼は普仏戦争の間の1870年に死亡し、彼の子供と孫たちはワインビジネスに対してほとんど熱意を示さなかった。
それは118年後のシャトー・ムートンを待つことになり、ナトの孫アンリの子フィリップ・ド・ロチルド(1902年-1988年)の主導のもと、今までにプルミエ・クリュへの再分類を達成した唯一のフランスのブドウ園になった。
^ 「ギー・ド・ロチルド#ミッテラン政権危機」を参照