ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルド

ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルド, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2888121 / CC BY SA 3.0

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ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルド(英語: Lionel Nathan de Rothschild, OBE、1882年1月25日 – 1942年1月28日)は、イギリスの銀行家、政治家。
1882年1月25日にレオポルド・ド・ロスチャイルドの長男としてロンドンで生まれる。
母はマリー・ペルージャ。
弟にエヴェリンとアンソニーがいる。
ハーロー校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業。
1908年にマスター・オブ・アーツの学位を取得した。
1903年からN・M・ロスチャイルド&サンズに勤めるようになる。
1910年から1923年にかけてアリスバーリー選挙区選出の庶民院議員を務める。
所属政党は保守党だった。
1914年の第一次世界大戦時には国防義勇部隊予備役少佐の地位にあった。
ライオネル自身は出征を希望していたが、一族から高齢のN・M・ロスチャイルド&サンズ共同経営者たち(父レオポルドと伯父二人)を支えることを期待されたため、イギリス本国に留まることになった。
しかし彼の弟二人は最前線で戦ったため(長弟エヴェリンは戦死している)、この時に出征しなかったことはライオネルに生涯の自責の念を与えたという。
1915年に伯父ロスチャイルド卿が死去すると、その次男であるチャールズがN・M・ロスチャイルド&サンズの経営を主導するようになったが、チャールズは病気でまもなく退任したため、ライオネルと次弟アンソニーが会社の主導権を握るようになっていった。
1917年に大英帝国勲章オフィサーを受勲した。
1930年代、ナチ党政権の誕生によりドイツでユダヤ人迫害が強まった。
これを憂慮したライオネルは、本家のヴィクターや弟アンソニーとともに「ドイツユダヤ人のための英国中央基金」や「ドイツユダヤ人のための委員会」などの募金機関を立ち上げ、ドイツ・ユダヤ人の亡命と亡命後の生活の支援を行った。
とりわけ一世代若いヴィクターがこの救済活動に熱心だった。
やや高齢のライオネルとアンソニーの兄弟は、イギリス社会から排除されないためには、まずイギリス人として行動するべきでユダヤ人であることは二の次という考え方が染み付いていたため、運動にかける情熱には温度差もあったものの、兄弟も出来る限り多くのユダヤ人を救おうと奔走したことに疑いはない。
1942年1月28日にケンジントン宮殿で死去した。
以降、会社の経営は弟アンソニーが主導するようになる。
植物に造詣が深く、サザンプトン郊外にエクスベリー・ガーデンを創設した。
その庭園への情熱の注ぎようから「庭園師が本職で銀行業は趣味」とまで評された。
またクルージング、温泉、山歩きも趣味だった。
パリ在住のエドモンド・ビーアの娘マリー・ルイーザ・ユージェニー・ベーア(Marie Louise Eugénie Beer)と結婚し、彼女との間に以下の4子を儲ける。

エヴェリン・ロバート・ド・ロスチャイルド

エヴェリン・ロバート・ド・ロスチャイルド, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2917420 / CC BY SA 3.0

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サー・エヴェリン・ロバート・エイドリアン・ド・ロスチャイルド(英語: Sir Evelyn Robert Adrian de Rothschild、1931年8月29日 – )は、イギリスの銀行家、実業家。
ロンドン・ロスチャイルド家の分流であり、2003年までN・M・ロスチャイルド&サンズの頭取を務めた。
1931年8月29日にロンドン・ロスチャイルド家の分流アンソニー・グスタフ・ド・ロスチャイルドの長男として生まれる。
母はイヴォンヌ・リディア・ルイーザ・カーヘン・ダンヴェール。
ハーロー校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学した。
1960年からN・M・ロスチャイルド&サンズの経営に参加した。
当時の頭取は従兄弟のエドムンドであり、彼のもとレオポルド(エドムンドの弟)とともに投資部門の拡張に努め、「ロスチャイルド投資信託銀行(RIT)」を創設したが、やがてここは本家のジェイコブ(後の第4代ロスチャイルド男爵)が主導する部門となる。
ジェイコブの主導で外部からの資金が大量に流れ込むようになり、それを元手に積極的な企業買収が開始された。
これによりN・M・ロスチャイルド&サンズの業績は急速に伸びた。
またジェイコブはN・M・ロスチャイルド&サンズの本社ニューコート事務所が狭すぎるとして伝統的な建築からオフィスビルに立て直させた。
一方エヴェリンは伝統と堅実経営を好むタイプであり、ジェイコブのリスクを恐れないM&A路線に不安を感じていた。
またエヴェリンの父アンソニーはN・M・ロスチャイルド&サンズの株式60%を保有していたが、ジェイコブの父ロスチャイルド卿ヴィクターは20%しか持っていなかったから、エヴェリンはジェイコブを独断専行に過ぎると考えていた。
二人の対立が深刻化する中の1975年に頭取のエドムンドが退任し、ロスチャイルド卿が新しい頭取となった。
エヴェリンとジェイコブの対立の仲裁役となることを期待されての就任だったが、結局、ロスチャイルド卿は息子より筆頭株主エヴェリンを支持したのでジェイコブは1980年にRITとともにN・M・ロスチャイルド&サンズから独立することになった。
その後ロスチャイルド卿はエヴェリンに頭取職を譲った。
エヴェリンの主導のもと、N・M・ロスチャイルド&サンズは堅実経営に戻った。
派手な企業買収こそなくなったが、順調に業績をあげたという。
1972年から1989年にかけては雑誌『エコノミスト』の社長も務めていた。
1989年にはエリザベス女王よりナイトに叙され、名前にサーの称号を入れることになった。
2003年にN・M・ロスチャイルド&サンズ頭取を退任して引退した。
この後、N・M・ロスチャイルド&サンズはパリ・ロチルド家(ロスチャイルドの仏語読み)の銀行と統合され、ロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングスが創設され、ロチルド家当主ダヴィド・ド・ロチルド男爵がその頭取に就任している。
1966年にジャネット・エレン・ドロシー・ビショップ(Jeannette Ellen Dorothy Bishop)と結婚したが、1971年に離婚した。
彼女との間に子供は無かった。
1973年にヴィクトリア・ロウ・スコット(Victoria Lou Schott)と再婚し、彼女との間に以下の3子を儲けている。
2000年にヴィクトリアと離婚し、 リン・フォースター(Lynn Forester)と再婚した。