ヴィクター・ロスチャイルド (第3代ロスチャイルド男爵)

ヴィクター・ロスチャイルド (第3代ロスチャイルド男爵), by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2831067 / CC BY SA 3.0

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第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクター・ロスチャイルド(英語: Nathaniel Mayer Victor Rothschild, 3rd Baron Rothschild, GBE, GM, FRS、1910年10月31日 – 1990年3月20日)は、イギリスの貴族、銀行家、政治家、陸軍軍人。
英国ロスチャイルド家嫡流の第5代当主。
1973年の第3代ロスチャイルド男爵ヴィクター・ロスチャイルド(中央) 初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルドの次男チャールズ・ロスチャイルドとその夫人であるロズシカ・フォン・ヴェルトハイムシュタインの長男として生まれる。
ハーロー校を経て、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。
マルクス主義者が多く参加していた大学内の秘密結社ケンブリッジの使徒に参加したが、ヴィクター自身は穏健な左翼思想の持ち主でマルクス主義者ではなかったという。
しかしソ連のスパイであるガイ・バーゲス、アンソニー・ブルント、キム・フィルビーらと交友関係を持っていた。
1937年8月27日に伯父である第2代ロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルドが男子なく死去したため、第3代ロスチャイルド男爵位を継承し、労働党の貴族院議員となる。
ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害に憤慨し、強制収容所から逃れてきたユダヤ人から聞いた体験談を演説で盛んに訴えたが、世間からはほとんど信じてもらえなかったという。
N・M・ロスチャイルド&サンズの経営を見ていた分家の従兄弟叔父たち(ライオネルとアンソニー)とともに「ドイツユダヤ人のための英国中央基金」や「ドイツユダヤ人のための委員会」といった募金機関を立ち上げ、ドイツ・ユダヤ人の亡命と亡命後の生活の支援をした。
ヴィクターは一族の中でも特に熱心にユダヤ人救済活動に取り組んでいたという。
1938年にはローマ教皇ピウス11世にラテン語で手紙をしたため、ナチスに対する抗議声明を出すことを嘆願した。
第二次世界大戦中にはイギリス陸軍に入隊し、若くして中佐階級まで昇進した。
MI5のB1C部(爆発物とサボタージュ対策部)部長としてドイツ軍が仕掛けてくるサボタージュ煽動への対策や爆発物の解体にあたっていた。
その戦功で国王ジョージ6世よりジョージ・メダルを賜り、またアメリカ軍からもブロンズ・スター・メダルを授与された。
首相ウィンストン・チャーチルの護衛隊員にも選出されている。
大戦中からイギリスの対外諜報機関と連携することが多かったため、その人脈を生かして戦後には私的諜報機関を作ったといわれ、中東戦争や中国国共内戦の情勢を調査したり、イスラエルの諜報機関モサドの育成にあたったなどといわれているが、諜報活動の真偽を調べるのは困難であり、定かではない。
戦中から戦後にかけて英国ロスチャイルド家の金融業の近代化が推し進められ、持株会社ロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングス(Rothschild Continuation holdings)が設置されるとともに、1947年にはその子会社としてN・M・ロスチャイルド&サンズが法人化され、株式会社となった。
ロスチャイルド家の嫡流でありながらヴィクターは諜報活動や政治家の仕事の方を好み、銀行業をやりたがらなかった。
そのためN・M・ロスチャイルド&サンズの株式は分家のアンソニー・グスタフ・ド・ロスチャイルドが60%を取得し、ヴィクターの所有は20%という配分がなされた。
これにより実質的経営権はアンソニーが握るようになった。
1970年に保守党政権のエドワード・ヒース内閣が成立。
ヒースは翌1971年にも首相直属で政策を提言する委員会を設置したが、その委員長にヴィクターが任じられた。
以降3年に渡ってヒース内閣に様々な政策提言を行った。
政府と科学技術の産業との橋渡しをはじめとして、人種問題や核問題などイギリスの様々な社会問題にも切り込んだ。
1974年に政権交代があり、1975年には首相直属委員会の委員長を辞した。
この後、N・M・ロスチャイルド&サンズ内で息子ジェイコブとアンソニーの息子で筆頭株主のエヴェリンの対立が深まり、二人の対立を仲裁…

ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルド

ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルド, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2888121 / CC BY SA 3.0

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ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルド(英語: Lionel Nathan de Rothschild, OBE、1882年1月25日 – 1942年1月28日)は、イギリスの銀行家、政治家。
1882年1月25日にレオポルド・ド・ロスチャイルドの長男としてロンドンで生まれる。
母はマリー・ペルージャ。
弟にエヴェリンとアンソニーがいる。
ハーロー校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業。
1908年にマスター・オブ・アーツの学位を取得した。
1903年からN・M・ロスチャイルド&サンズに勤めるようになる。
1910年から1923年にかけてアリスバーリー選挙区選出の庶民院議員を務める。
所属政党は保守党だった。
1914年の第一次世界大戦時には国防義勇部隊予備役少佐の地位にあった。
ライオネル自身は出征を希望していたが、一族から高齢のN・M・ロスチャイルド&サンズ共同経営者たち(父レオポルドと伯父二人)を支えることを期待されたため、イギリス本国に留まることになった。
しかし彼の弟二人は最前線で戦ったため(長弟エヴェリンは戦死している)、この時に出征しなかったことはライオネルに生涯の自責の念を与えたという。
1915年に伯父ロスチャイルド卿が死去すると、その次男であるチャールズがN・M・ロスチャイルド&サンズの経営を主導するようになったが、チャールズは病気でまもなく退任したため、ライオネルと次弟アンソニーが会社の主導権を握るようになっていった。
1917年に大英帝国勲章オフィサーを受勲した。
1930年代、ナチ党政権の誕生によりドイツでユダヤ人迫害が強まった。
これを憂慮したライオネルは、本家のヴィクターや弟アンソニーとともに「ドイツユダヤ人のための英国中央基金」や「ドイツユダヤ人のための委員会」などの募金機関を立ち上げ、ドイツ・ユダヤ人の亡命と亡命後の生活の支援を行った。
とりわけ一世代若いヴィクターがこの救済活動に熱心だった。
やや高齢のライオネルとアンソニーの兄弟は、イギリス社会から排除されないためには、まずイギリス人として行動するべきでユダヤ人であることは二の次という考え方が染み付いていたため、運動にかける情熱には温度差もあったものの、兄弟も出来る限り多くのユダヤ人を救おうと奔走したことに疑いはない。
1942年1月28日にケンジントン宮殿で死去した。
以降、会社の経営は弟アンソニーが主導するようになる。
植物に造詣が深く、サザンプトン郊外にエクスベリー・ガーデンを創設した。
その庭園への情熱の注ぎようから「庭園師が本職で銀行業は趣味」とまで評された。
またクルージング、温泉、山歩きも趣味だった。
パリ在住のエドモンド・ビーアの娘マリー・ルイーザ・ユージェニー・ベーア(Marie Louise Eugénie Beer)と結婚し、彼女との間に以下の4子を儲ける。