ナサニエル・ロスチャイルド (初代ロスチャイルド男爵)

ナサニエル・ロスチャイルド (初代ロスチャイルド男爵), by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2830904 / CC BY SA 3.0

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初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ロスチャイルド(英: Nathaniel Mayer Rothschild, 1st Baron Rothschild, GCVO, PC、1840年11月8日 – 1915年3月31日)は、イギリスの銀行家、政治家、貴族。
英国ロスチャイルド家嫡流の第3代当主。
1840年に英国ロスチャイルド家の嫡流であるライオネル・ド・ロスチャイルドとその夫人シャーロットの長男としてロンドンに生まれる。
弟にアルフレッドとレオポルドがいる。
父ライオネルの弟たちはナサニエル・ド・ロスチャイルド(彼はパリに移住してフランス・ロチルド家の一員になった)以外に子がなかったため、ライオネルの息子3人が英国ロスチャイルド家の全財産を受け継ぐ立場であった。
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学し、在学中に皇太子バーティ(後の国王エドワード7世)と親友となる。
1865年7月11日にロスチャイルド家が大地主として影響力を持つバッキンガムシャー・アリスバーリー選挙区から自由党候補として出馬して庶民院議員に初当選し、貴族院へ移籍する1885年まで当選を続ける。
1876年に死去した叔父アンソニーから准男爵位を継承し、1879年に死去した父ライオネルからオーストリア=ハンガリー帝国の男爵位を継承した。
また父の死により、弟二人とともにN・M・ロスチャイルド&サンズの共同経営者に就任した。
1882年にイギリス軍がオラービー革命を鎮圧してエジプトを占領した際にはエジプトの財政再建のために850万ポンドの借款を提供した。
その恩賞で1885年にヴィクトリア女王よりロスチャイルド男爵位を授与された。
彼はユダヤ教徒ユダヤ人で最初の貴族院議員であり、宣誓の際にはユダヤ教の三角帽をかぶり、ユダヤ教式の宣誓を行った。
祖父の代からの伝統で形式的に自由党に所属していたものの、彼自身は保守派であり、革新的な政策には全て反対した。
改革政党に潜入し、内部から改革案を潰しまわる保守派のお手本のような人物だった。
さらに1886年からは自由党を離れ自由統一党に所属し、保守党と自由統一党の連携の橋渡し役を務めている。
しかし彼の改革に反対する演説はいつも博識さに充ちあふれ、理路整然としていたため、親友の保守党党首ベンジャミン・ディズレーリからも感心された。
ディズレーリは「歴史的事実について知りたいと思う時は、いつもナサニエルに尋ねた」と語っている。
逆に政敵からは恐れられ、1909年には自由党政権の大蔵大臣ロイド・ジョージから「我々の改革への一切の道は”ナサニエル・ロスチャイルドの命により通行禁止”という注意標識一つで封鎖されるのか」と名指しで批判された。
1867年にケープ植民地(南アフリカ)でダイヤモンドが発見されるといち早くアングロ・アフリカン・ダイヤモンド鉱山会社に投資し、1887年には同社をセシル・ローズの鉱山会社デ・ビアスに合流させ、ローズの嘆願に応じてデ・ビアスに100万ポンドの投資を行った。
以降ロスチャイルド家はダイヤモンド産業にも深くかかわるようになった。
ローズはエジプトからケープ植民地までアフリカ大陸を縦断するイギリス植民地帝国を建設するという壮大な野望を持つ夢想的帝国主義者であったため、1890年にケープ植民地首相になるや、デ・ビアスの資産を帝国主義的拡張のために使用したいという要望を出資者のロスチャイルド卿にしてくるようになったが、現実主義者のロスチャイルド卿の反応は冷ややかで「我々はデ・ビアスをダイヤモンド会社に過ぎないと考えている」と断っていた。
慈善事業にも取り組み、ロンドンの4つの病院のパトロンとなり、英国赤十字社の会長も務めた。
ユダヤ人同胞に対する慈善事業にはとりわけ力を入れ、ユダヤ人自由学校の運営に巨額の資金をかけた。
迫害を受ける同胞の保護にもあたり、ユダヤ人迫害を推進するロシア帝国に対しては強い憤りを感じていた。
ロシア政府が融資を求めにきた際にも門前払いにしている。
また1904年の日露戦争では、ニューヨークのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフから「日本の勝利がユダヤ人同胞を迫害するツァーリ体制打倒のきっかけとなる」…

ヴィクター・ロスチャイルド (第3代ロスチャイルド男爵)

ヴィクター・ロスチャイルド (第3代ロスチャイルド男爵), by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2831067 / CC BY SA 3.0

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第3代ロスチャイルド男爵ナサニエル・メイヤー・ヴィクター・ロスチャイルド(英語: Nathaniel Mayer Victor Rothschild, 3rd Baron Rothschild, GBE, GM, FRS、1910年10月31日 – 1990年3月20日)は、イギリスの貴族、銀行家、政治家、陸軍軍人。
英国ロスチャイルド家嫡流の第5代当主。
1973年の第3代ロスチャイルド男爵ヴィクター・ロスチャイルド(中央) 初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルドの次男チャールズ・ロスチャイルドとその夫人であるロズシカ・フォン・ヴェルトハイムシュタインの長男として生まれる。
ハーロー校を経て、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。
マルクス主義者が多く参加していた大学内の秘密結社ケンブリッジの使徒に参加したが、ヴィクター自身は穏健な左翼思想の持ち主でマルクス主義者ではなかったという。
しかしソ連のスパイであるガイ・バーゲス、アンソニー・ブルント、キム・フィルビーらと交友関係を持っていた。
1937年8月27日に伯父である第2代ロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルドが男子なく死去したため、第3代ロスチャイルド男爵位を継承し、労働党の貴族院議員となる。
ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害に憤慨し、強制収容所から逃れてきたユダヤ人から聞いた体験談を演説で盛んに訴えたが、世間からはほとんど信じてもらえなかったという。
N・M・ロスチャイルド&サンズの経営を見ていた分家の従兄弟叔父たち(ライオネルとアンソニー)とともに「ドイツユダヤ人のための英国中央基金」や「ドイツユダヤ人のための委員会」といった募金機関を立ち上げ、ドイツ・ユダヤ人の亡命と亡命後の生活の支援をした。
ヴィクターは一族の中でも特に熱心にユダヤ人救済活動に取り組んでいたという。
1938年にはローマ教皇ピウス11世にラテン語で手紙をしたため、ナチスに対する抗議声明を出すことを嘆願した。
第二次世界大戦中にはイギリス陸軍に入隊し、若くして中佐階級まで昇進した。
MI5のB1C部(爆発物とサボタージュ対策部)部長としてドイツ軍が仕掛けてくるサボタージュ煽動への対策や爆発物の解体にあたっていた。
その戦功で国王ジョージ6世よりジョージ・メダルを賜り、またアメリカ軍からもブロンズ・スター・メダルを授与された。
首相ウィンストン・チャーチルの護衛隊員にも選出されている。
大戦中からイギリスの対外諜報機関と連携することが多かったため、その人脈を生かして戦後には私的諜報機関を作ったといわれ、中東戦争や中国国共内戦の情勢を調査したり、イスラエルの諜報機関モサドの育成にあたったなどといわれているが、諜報活動の真偽を調べるのは困難であり、定かではない。
戦中から戦後にかけて英国ロスチャイルド家の金融業の近代化が推し進められ、持株会社ロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングス(Rothschild Continuation holdings)が設置されるとともに、1947年にはその子会社としてN・M・ロスチャイルド&サンズが法人化され、株式会社となった。
ロスチャイルド家の嫡流でありながらヴィクターは諜報活動や政治家の仕事の方を好み、銀行業をやりたがらなかった。
そのためN・M・ロスチャイルド&サンズの株式は分家のアンソニー・グスタフ・ド・ロスチャイルドが60%を取得し、ヴィクターの所有は20%という配分がなされた。
これにより実質的経営権はアンソニーが握るようになった。
1970年に保守党政権のエドワード・ヒース内閣が成立。
ヒースは翌1971年にも首相直属で政策を提言する委員会を設置したが、その委員長にヴィクターが任じられた。
以降3年に渡ってヒース内閣に様々な政策提言を行った。
政府と科学技術の産業との橋渡しをはじめとして、人種問題や核問題などイギリスの様々な社会問題にも切り込んだ。
1974年に政権交代があり、1975年には首相直属委員会の委員長を辞した。
この後、N・M・ロスチャイルド&サンズ内で息子ジェイコブとアンソニーの息子で筆頭株主のエヴェリンの対立が深まり、二人の対立を仲裁…

ウォルター・ロスチャイルド (第2代ロスチャイルド男爵)

ウォルター・ロスチャイルド (第2代ロスチャイルド男爵), by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=643864 / CC BY SA 3.0

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シマウマの馬車に乗るウォルター。
ハイド・パークをこれで回って話題になった。
トリングパークで飼っていたガラパゴスゾウガメに乗るウォルター。
このゾウガメは「ロトゥマ」と名付けられ、年齢は150歳以上だったという。
第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド(英語: Lionel Walter Rothschild, 2nd Baron Rothschild, FRS、1868年2月8日 – 1937年8月27日)は、イギリスの動物学者、政治家、貴族。
英国ロスチャイルド家の嫡流であるが、銀行業には関心を持たず、動物学研究に傾倒した。
初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルドとその夫人エンマ・ルイーザ・フォン・ロートシルトの間の長男としてロンドンに生まれる。
弟にチャールズ・ロスチャイルドがいる。
子供の頃から動物好きだった。
子供の頃には蛾や蝶の蒐集をしていた。
ケンブリッジ大学モードリン・カレッジで動物学を学ぶ。
その卒業論文は高い学術的レベルにあり、教授たちから大学に留まって学者になることを薦められたが、1889年には大学の研究室を去って曾祖父ネイサン・メイアー・ロスチャイルドによって設立された投資銀行N・M・ロスチャイルド&サンズで働くようになった。
しかしさして重要な役職には就かず、動物学研究を続ける時間的余裕をわざと作った。
また銀行業の仕事に際しても大英帝国各地に散らばる支店を活用して動物に関する情報を収集したようである。
1892年にはロスチャイルド家所有の土地トリング・パークに動物園と動物学博物館を設立した。
博物館には多くの動物の剥製や昆虫の標本が集められた。
また動物園には世界各地から動物を購入して集め、研究員たちとともにその生態を研究し、動物学の本を次々と刊行した。
彼によって新発見された動物も少なくなく、それらの動物にはロスチャイルド・キリンなどロスチャイルドの名(ジラファ・カメロパルダリス・ロスチルディ Giraffa camelopardaris rothschildi)が冠された。 1899年にバッキンガムシャー・アリスバーリー選挙区から自由統一党候補として出馬して庶民院議員に当選する。以降、議会に行くという名目で銀行業の執務を抜け出してロンドン自然史博物館に通うようになった。 父から受けている手当は巨額だったが、それをもってしても数万匹の動物は養いきれなかった。彼は絶えず借金し、ついには父ナサニエルに無断で父に保険金をかけたことで父の逆鱗に触れた。父は銀行業務そっちのけで動物学研究に傾倒する長男ウォルターに三行半をつけるか迷っていたが、ここにきてついにウォルターを経営から追放して次男チャールズに経営を委ねることを決意した。こうしてウォルターは、煩雑な経営から免れて、残りの全生涯を動物学に捧げることができるようになった。銀行の経営を見るようになった弟チャールズも動物学研究に関心を持っており、兄の研究に協力した。チャールズは特にノミの研究で知られる。 第一次世界大戦中の1915年に父が死去し、第2代ロスチャイルド男爵を継承し、貴族院議員となる。さすがに父が死んだとなれば長男であるウォルターが銀行業を継承すべきという意見もあったが、相変わらず彼には銀行業をやる意思がなく、銀行業は弟チャールズが継ぐことになった。しかしチャールズは二年ほどで身体を壊したため、最終的には叔父レオポルドの息子であるライオネルとアンソニーの兄弟に受け継がれることになった。この兄弟は銀行業の才能があり、経営は再び軌道に乗ったという。 1917年にオスマン帝国領パレスチナにイギリス軍が進攻したが、その際に英外相アーサー・バルフォアに働きかけ、彼からバルフォア宣言を出させるのに貢献した。ウォルターはテオドール・ヘルツルの思想に影響を受けていたので、シオニズムに好意を持っていたが、英国ロスチャイルド家は英国ユダヤ人に反シオニズム組織を創設させるなど完全に反シオニズムの立場だったから、ウォルターは英国ロスチャイルド家の中で異端の人物だったといえる。もっともウォルター自身もシオニズムにさほど熱心だったわけではなく、これを積極…

ロスチャイルド男爵

ロスチャイルド男爵, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2850225 / CC BY SA 3.0

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ロスチャイルド男爵(英語: Baron Rothschild)は、イギリスの男爵位。
連合王国貴族。
第2代準男爵サー・ナサニエル・ロスチャイルドが1885年に叙爵されたことに始まる。
2015年現在の当主は第4代ロスチャイルド男爵ジェイコブ・ロスチャイルドである。
英国ロスチャイルド家初代当主であるネイサン・メイアーは1822年にオーストリア皇帝フランツ2世より男爵位を与えられ、オーストリア貴族に列していた。
イギリス国内における称号では、1847年1月12日にネイサンの次男であるアンソニーがイギリス女王ヴィクトリアにより(グローヴナー・プレイスのロスチャイルド)准男爵(Baronet “Rothschild of Grosvenor Place”)位を与えられている。
この準男爵位は長兄ライオネルの息子たちへの特別継承規定を認めていた。
そのため、男子の無いアンソニーが1876年に死去すると、ライオネルの長男ナサニエルが准男爵位を継承した。
さらにナサニエルは1885年6月29日にヴィクトリア女王よりハートフォード州におけるトリングのロスチャイルド男爵(Baron Rothschild, of Tring in the County of Hertford)に叙され、連合王国貴族に列した。
爵位名はナサニエル自身がヴィクトリア女王に頼んでロスチャイルド家の家名と同じにしてもらったという。
ナサニエルはユダヤ教徒ユダヤ人で最初の貴族院議員であり、貴族院での宣誓の際にはユダヤ教の三角帽をかぶり、ユダヤ教式の宣誓を行っている。
ナサニエルは1915年に死去し、その長男ウォルターが爵位を継承した。
ウォルターは動物学者として著名である。
またイギリス政府がバルフォア宣言を出すのに貢献した人物としても知られる。
ウォルターには子がなかったため、1937年にウォルターが死去するとウォルターの弟チャールズの長男であるヴィクターが第三代男爵位を継承した。
1990年にヴィクターが死去すると、その長男ジェイコブが第4代男爵となっている。
初代男爵ナサニエルは銀行家であったが、第2代男爵ウォルターは銀行業にほとんど関心をもたず、その弟チャールズも病弱だったので彼らの代からN・M・ロスチャイルド&サンズの経営権は分家(ナサニエルの弟レオポルドの家系)に移っている。
現在の第4代男爵ジェイコブもRIT・キャピタル・パートナーズという独自の金融業を行っている。
家訓は「協調、誠実、勤勉」(Concordia Integritas Industria)。
現当主ジェイコブ・ロスチャイルドは以下の爵位・準男爵位を保有している。
ナサニエル・フィリップ・ヴィクター・ジェイムズ・ロスチャイルド (1971年-) 現当主の長男。
法定推定相続人 ジェイムズ・アムシェル・ヴィクター・ロスチャイルド (1985年-) 現当主の甥 ロスチャイルド男爵・準男爵ロスチャイルド家系図